金鱗湖は由布院を代表する観光スポットの一つです。
明治初期の儒学者・毛利空桑が、湖で泳ぐ魚の鱗が夕日で金色に輝くのを見て「金鱗湖」と名付けたといわれています。
湖に清水と温泉が流れ込んでいると言われ、年間を通じて水温が高いため、冬の早朝には湖面から湯気が立ち上る幻想的な光景を見ることができます。
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金鱗湖は由布院を代表する観光スポットの一つです。
明治初期の儒学者・毛利空桑が、湖で泳ぐ魚の鱗が夕日で金色に輝くのを見て「金鱗湖」と名付けたといわれています。
湖に清水と温泉が流れ込んでいると言われ、年間を通じて水温が高いため、冬の早朝には湖面から湯気が立ち上る幻想的な光景を見ることができます。
湯布院町は、大分県のほぼ中央に位置し、大分郡に属していた町であり、町内に3箇所の温泉地があります。歓楽街を廃した町並みは「東の軽井沢、西の湯布院」といわれ、女性に大変人気があります。
同じ温泉の町でも、歓楽街が多く、夜に賑わいをみせる別府市とは対照的な印象であり、他の温泉地に見受けられる、規模の大きい旅館が存在しないのもこの町の特徴です。
合元寺(ごうがんじ)は1587年、黒田官兵衛孝高によって建立されました。
深紅に塗られた壁は城下町・中津の中でもひときわ強烈な印象を与え、別名・赤壁寺とよばれています。
豊臣秀吉の時代、豊前の実力者だった宇都宮鎮房(しげふさ)が騙し討ちに遇い、この寺を宿舎にしていた家臣たちも全員討ち死。その時の血潮を浴びた門前の白壁は何度塗り替えても血痕が浮き出るため、ついに赤壁に塗り替えたといわれています。
当時の激戦の様子は現在も境内の大黒柱に刀の痕が点々と残されています。
福澤諭吉旧居は、福澤諭吉が幼少年期を過ごした大分県中津市にある旧居です。国史跡。
今日の文明国の土台を築いた福澤諭吉は、偉大な教育者であり、思想家です。福澤諭吉旧居は、諭吉が長崎に遊学するまでの幼少青年期を過ごした家で、自ら改造し勉学に励んだ土蔵が残っています。
中津城は福岡県と県境にある中津川の河口沿いに位置しており、北は周防灘、西は中津川に面し、東は二重、南は三重の堀をつくり、外堀には「おかこい山」と呼ばれる土塁をめぐらせていました。
水門から海水が入って堀の水かさは潮の干満で上下する水城で、高松城、今治城とともに日本三大水城の1つに数えられています。また、城郭の形が扇の形をしていたことから、「扇城」とも呼ばれています。
七ツ釜は、佐賀県唐津市屋形石に位置し、上場台地が玄界灘に落ち込む場所です。玄武岩の柱状節理が発達していることで知られています。
1925年に国の天然記念物に指定されており、7つの海食洞があるということから「七ツ釜」と名付けられましたが、実際には7つ以上の洞があります。呼子からは観光船が出ていますが、入口から数mまでは観光船が中に入れる程の大きさのものもあります。
唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高によって慶長7年(1602年)から7年の歳月を費やして築城されました。東西に伸びる松原が両翼を広げた鶴のように見えることから、別名「舞鶴城」と呼ばれています。
その城主には寺沢、大久保、松平、土井、水野、小笠原の諸氏が任ぜられています。
唐津城築城当初は、天守閣はありませんでしたが、昭和41年(1966)に文化観光施設として天守閣を建てました。天守閣内は郷土博物館になっていて、唐津藩の資料や唐津焼などが展示され、唐津の歴史に触れることができます。また、展望所からは玄界灘と虹の松原の雄大な景観や、松浦川と城下町唐津の風景を見ることができます。
小倉城は、福岡県で唯一の天守閣を持つお城で、天守閣の高さは全国のお城の中でも第6位、1階の床面積は全国有数の広さを持つお城です。
「九州のすべての道は小倉に通ず」と言われた小倉は、九州各地からの交通の要衝として栄え、また九州各地を監視する役目を担った重要な拠点でもありました。